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「得気(とっき)」の重要性

 
 

 
 

得気(得气):刺鍼時に患者が感じる「酸(だるさ)・麻(しびれ)・重(重さ)・胀(腫れぼったさ)・痛(響く痛み)」などの鍼治療独特の感覚の事。術者は「沉(沈む)・涩(渋る)・滞(滞る)・紧(締まる)」などの感覚を得る。得気は《灵枢・终始》、《灵枢・九针十二原》、《标幽赋》、《金针赋》等多くの鍼灸医籍に記載があり、現代中医も得気の有無を重視している。中国で最も権威のある人民衛生出版社の《中医大辞典》には、“历代针灸医家都十分重视针刺的得气,认为刺之要,气至而有效。(歴代の針灸医家はみな得気を重視しており、得気が刺鍼の要であり、患部に気を至らせることで効果を得られると考えていた)”と記されている(“气至而有效”は黄帝内経の有名な言葉)。針灸大成第四巻指持には、得気を捕らえる刺鍼技法の1つとして、“手如握虎,势若擒龙(刺入時の手は虎を捕らえるかの如く強く、龍を捕らえるかの如く勢いよく)”と記してある。
*「麻」は鍼尖が神経に触れた時のような激しい触電感を伴うようなしびれ感ではなく、刺鍼時の反射で筋肉が収縮して神経を圧迫した時のような、間接的なしびれ感の事。

 
 
得气(deqi、得気)という言葉は中医の世界では常識だけれども、日本では未だにほとんど知られていないらしい。私が学生だった当時、鍼灸学校で扱っていた教科書には得气について詳しく記されておらず、教員も知らず、同級生も知らず、図書館に置いてある自称日本鍼灸界の重鎮だとかいう鍼灸師が記した著名な本にも記されていなかったため、恥ずかしながら私も得气についてほとんど知らなかった。残念ながら日本鍼灸のレベルはその程度なのだと悟った。
 
得气について詳しく知るようになったのは、鍼灸師の国家試験を控えた冬に北京堂へ通い出してからだ。師匠である淺野周先生は「得気がないと針は効かない」と常々口にしていた。それまで私は酷い慢性頭痛と腰痛に悩まされ、鍼灸学校の付属施術所やら、著名な経絡治療の鍼灸院やら、日本の一部の鍼灸師から狂信的な人気を誇り、脈診やら腹診やらを重視する〇〇治療という鍼灸を行う団体のボスの右腕と呼ばれていた某先生の施術を週1回、2年余りにわたって受けていたわけだが、微塵も改善していなかった。しかし、北京堂で6回ほど施術を受けたらそれまで全く変化が見られなかった頭痛と腰痛が完治してしまった。
 
北京堂で初めて施術を受けた時は衝撃的だった。それまで受けてきた鍼施術はいわゆる浅鍼治療で、橈骨動脈の脈を診たあとに数か所のツボを軽く刺激するだけだったから、施術時の痛みなど全くなかった。刺鍼時に痛みや響き(得気)があったり、術後にだるくなったり痛みが増したような状況は、私が在籍していた鍼灸学校においては根拠なく全てが否とされていたもんだから、初診後数日間は密かに師匠の施術内容を疑っていた。 
 
だいたい、その学校では「針は入れるものではない。体が欲していれば、鍼は皮膚の上に当てるだけで勝手に吸い込まれていくものだ」などと中医からみたら一笑に付されそうなことを教員が本気で言っていたから、針は刺さずとも効くのだろうと盲信している学生がほとんどだった。確かに、中医経典には「体内の邪気が針を引き込む」云々という記述があるけれども、それはある程度の深度まで針を体内に刺入した場合の話であって、軽く皮膚に針を当てただけで、針が術者の意識とは関係なく体内に引き込まれるということは、医学的に考えてもあり得ない。つまり、鍼を体内に入れることができるのはあくまで術者の力が働いた結果であって、例えば刺鍼時に患部の筋肉が強く萎縮していたり、刺鍼後に患者が意識的に筋肉を収縮させた場合に限っては、針が体内に引き込まれることは実際にある。嘘だと思うなら、犬や猫に針を持たせて、皮膚に当てだけで針が勝手に体内へ進むかどうか実験でもしてみればよろしい。そもそも、邪気というモノが実在するかどうかの議論が必要で、そういうあたりにツッコミを入れる鍼灸師が少ないことが、民衆の鍼灸に対するカルト感を助長させていると推察されるが、とりあえず邪気についての議論はここではしないことにする。
 
日本の鍼灸学校の教員は臨床経験が皆無に等しかったり、中国語を全く解せず重要な中医経典を原語で読んだこともなければ、最新の中医針灸を知らぬということが多いようだ。そんな状況にも関わらず、教団教壇で針灸を知っているかの如くカルト的に語る教員が少なからず実在するから、学生は真実を知らぬまま教員が語る針灸が本当の針灸であると不幸にも洗脳されてしまうようだった。

とりあえず、北京堂へ初めて行った時の話に戻そう。北京堂の針灸施術では、これまでに感じたことのない刺鍼痛があり、私の背中の筋肉があまりにも硬かったため、鍼を入れた瞬間に筋肉が強く収縮し、8番鍼(0.30mm)がグニャリと曲がってしまった。一般的に日本の鍼灸院では太くても5番鍼(0.24mm)までしか使わないという知識があったから、8番鍼を使ったことに驚いた。

大腰筋に刺鍼した時は大腿神経に沿って電気が流れたかのようにビリッときたりして、これまた驚いた。「ズキッと響きました!」と私が悲鳴を上げると、師匠は「これが得気です。これがないと効きません」と言った。確かに痛かったが、施術後にすぐに腰が楽になった事実には本当にビックリした。術後、師匠は曲がった鍼を「北京堂鍼灸」という屋号が印字された水色の封筒に入れ、「記念にあげましょう」と言って私に差し出した。

中国で最も権威のある人民衛生出版社の《针灸推拿学辞典》にも記されているように、「灵枢・终始」、「灵枢・九针十二原」、「标幽赋」、「金针赋」などの基礎的な中医经典にでさえ、得気についての記載がある。しかし、当時、日本の鍼灸学校で使われていた教科書には、得気について触れている文章が全くなかったのだ。教員も、〇〇治療のボスも、得気について語ることはなかった。

ちなみに、中国で最も権威のある人民衛生出版社の《针灸推拿学辞典》には、「历代针灸医家都十分重视得气,如未得气,可采取候气或催气的方法,促使得气。(歴代の針灸医家はみな得気を重視していた。もし得気が至らなければ、候気あるいは催気のような方法で得気が至るように促すべきである)」と記されている。また中国で最も権威のある人民衛生出版社の《中医大辞典》にも、「历代针灸医家都十分重视针刺的得气,认为“刺之要,气至而有效”。(歴代の針灸医家はみな刺鍼時の得気を重視しており、“得気は刺鍼の要であり、(患部に)気を至らせることで効果がある”と考えていた。」と記されている。
 
最近では、根拠なくゴッドハンドであると自称する鍼灸師や、医師免許を持っていないのに「私は名医100選に選ばれた!」と喧伝する鍼灸師(鍼灸師免許しか保持していない者が、名医とか医師とか〇〇医などと、あたかも医師免許を取得しているかのような呼称を用いることは医師法違反になる可能性がある)、ありふれた病態さえマトモに治せないのに「私は難病の研究をしとるんじゃ!」などと偉ぶっている鍼灸師、わけのわからぬ肩書ばかりを集めて己の権威付けに執着し会員商法で無知な鍼灸師を集めて悪銭を稼ぐことに熱心な鍼灸師などがいるらしいが、中国の歴代針灸医家が得気を重視していたことさえ知らぬのであれば、何れはその虎の威を籍りたような偽りの権威など、容易に暴かれてしまうことだろう。ちなみに、私の知る限りでは、これまでも現在も、日本の鍼灸界には中国で言うような「神医」は存在しない。

そもそも、中国語で中国医学を勉強している者からしてみれば、古くからある得气なんて言葉も、扁鹊华佗、张仲景、孙思邈、李时珍ら、神医とか药王と呼ばれた偉人については当然知っているし、近年、中国針灸技術の発展に大きく貢献した朱汉章王雪苔、邓铁涛、焦树德、程莘农、路志正、贺普仁などの名老中医についても知っている。しかし、日本ではほとんど知られていないのが実情だ。
 
真面目に中国医学を勉強していれば、「東洋医学」なんていう曖昧模糊とした用語など使わぬだろうし、ましてや古代から現代にいたるまでの中国医学を知らずに針灸を語ることなんて到底できぬだろうと思うが、残念ながら日本の鍼灸界では、そういう素人に毛の生えたような不勉強な鍼灸師であっても、やり方次第で「権威」となることが可能なのである。
 
たまに、そういう鍼灸師の施術を受けたことがあるという患者が当院へ来院すると、「なぜ脈を診ないのか」とか「鍼が響いて痛い」などと騒いで、怒って帰ることがある。しかし、鍼で本当に重要なのは得気、つまりは響きがあるかどうかであって、どんなに丁寧に脈を診ようが、最新設備が整った大学病院で施術しようが、症状が改善しなければ本末転倒に等しいのであるが、いわゆる日本特有の鍼灸治療に心酔している患者にとっては、どうも理解し難いらしい。まぁ、「縁無き衆生は度し難し」であって、全てを救おうとするのは土台無理な話なのだ。