『余の手術は長鍼にして、其の刺鍼點僅かに十五六點に出でず。而して全体を感通せざる所なし。杉山氏は其の刺點數百に至る。其れ此如く何の理に因って其の多數を要するや、之を知るに苦しむ。…余の鍼術現今泰西の解剖生理病理に的合するも、其の診断上、病症の的否を判ぜざれば、亦た無用の長物に属す。故に余の鍼術に従事せんと欲するものは、手術鍛錬の如何より、寧ろ鍼治解剖の精確と鍼理病理の関係及び病症鑑別に熟達せんを要す。是れ余の發明する所にして、他流と其の趣を異にする所以なり。』(大久保適齋著「鍼治新書 治療篇 復刻版」昭和48年、医道の日本社、)』より引用)
『現代医学は目を見張るような進歩をとげたものの、物理学や化学などとちがってまだ全体としては、たいへん不完全な情報の体系です。…日進月歩の医学の進歩に追いつくことをあきらめて、ほとんどもっぱら道徳的権威---あるいは道徳的権威らしきものに頼っている医者もないとはいえません。…とにかく科学的権威を伴わない道徳的権威は、ときとして有害でしょう。…たいへん勉強家で新しい医学雑誌にたえず目を通している、もっぱら知的権威を頼りにしている医者が一向にはやらず、あまり医学書も読まぬ、酒飲みの豪傑医者がかえってたいそう人気を集め、頼りにされているという場合も珍しくはありません。』(砂原茂一著「医者と患者と病院と」岩波新書、1983年)』より引用)
『研修医になってからはビルクス教授のもと、毎日のように手術場に入った。…私は、なぜ先生はわかりやすく教えてくれないのだろうといつも思っていた。その理由はあとになってわかった。…気がつけば私もビルクス教授と同じような教え方をしていたからだ。結局、「このときはこういうふうにしたほうがいい」と教えてしまうと、それさえできればいいのだと勘違いしてしまい、それ以上のことを自分でしようとしない。大切なのは、自分で見て、考えて、動くことだ。技術とは、人に教わったとおりにすることではなく、自分自身で創意工夫を繰り返すなかで身につけていくべきものなのだ。…単なるコピーではなく、師匠の技術を盗み、自分のものにしていく過程で、師匠を上回る腕を身につけていくのだ。』(南和友著「こんな医療でいいですか?」はる書房、2009年)』より引用)
『南ベトナムでは昔から、王権といえども村落の垣を越えない、といわれています。つまり村落のほうが社会単位として重要な意味をもっているというわけです。…村落とか、血縁、地縁で結ばれた横関係の社会は、王朝からの被害をいかに少なくてすませるか、防ぐかということでできているようなものだったのですね。王朝というのは害を与えるだけのもので、決して住民を幸福にはさせないものだ、ということはみんな知っているわけです。』(司馬遼太郎『歴史と風土』(文春文庫、1998年)』より引用)
『ぼくは未来とか明日とかいう考え、みんな嫌いなんだ。…未来社会を信ずる奴は、みんな一つの考えに陥る。未来のためなら現在の成熟は犠牲にしたっていい、いや、むしろそれが正義だ、という考えだ。…未来社会を信じない奴こそが今日の仕事をするんだよ。現在ただいましかないという生活をしている奴が何人いるか。現在ただいましかないというのが“文化„の本当の形で、そこにしか“文化„の最終的な形はないと思う。…未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。三島のいうことには未来のイメージがないなんていわれる。バカいえ、未来はオレに関係なくつくられてゆくさ、オレは未来のために生きてんじゃねェ、オレのために生き、オレの誇りのために生きている。』(三島由紀夫『若きサムライのために』(文春文庫、1996年)』より引用)
『ひとりの病人を目の前にして、その病苦を取り除くことは容易なわざではないが、それにもまして困難な問題は、針灸治療を行なって症状が回復した場合、それが治療効果によるものか、あるいは暗示効果や自然治癒によるものかを確かめる仕事である。』(木下晴都『坐骨神経痛と針灸』(医道の日本社、1969年)』より引用)
『たとえばエベレスト一つとりましても、確かにエベレストを日本人で初めて登らせてもらいましたけれども、…こんなのは一歩日本から出れば、ここにもいる、あそこにもいるという感じで、そんなのはあたりまえのことで、二番せんじのことを意味している。ところが日本は、人より先に何かやったといったら、日本の国の中で盛り立てて別人間にしたりするような狭さというものを感じます。』(山と渓谷社編『植村直己 冒険の軌跡-どんぐり地球を駆ける-(山と渓谷社、1979年)』より引用)
『ヒステリーの典型的な症状としては原始反応ともいうべき、「運動乱発」、および「擬死反射」がある。運動乱発とは、振戦・痙攣・運動過多・興奮などがあり、急性の驚愕・不安・恐慌の症状と、小児の不快刺激に対する症状発作との中間に位置する過動症状である。擬死反射のなかには、感覚脱失・視力障害・麻痺・こん迷状態などの減動症状がある。さらに、ヒステリーにはそのような身体機構のほかに、精神機構があり、その精神機構の根本になるのは「疾病逃避機制」と強引な「自己合理化」である。ヒステリー患者は以上にあげたような身体的に表現される症状をたてにして、自己の合理化をはかり、さらに疾病逃避を行う傾向がある。このような現実逃避傾向は、ヒステリー性格の自己中心性を基盤とするものであって、そこにはあらゆるものを自己の犠牲にしなければやまない、といった心理機制がかいまみられる。…ヒステリー患者に特徴的な人格像の一つには、極端な外向性、自分を修飾するための作話・虚言癖があり、ときには人格の変換がおこって二重人格、あるいは多重人格として表現される。』(天本宏『現代のエスプリ -人格は変わるか- No.99〝ヒステリーの人格特徴〟(至文堂、昭和50年)』より引用)
『私は思う、ビジネスはお金儲けのためにのみあるのではなく、お客と共に社会を良くしていくためにあるのだと。そしてお客もそういう事業精神を持つ会社を好きになり、尊敬し、応援するのである。』(小阪裕司『招客招福の法則(日本経済新聞社、2006年)』より引用)
『食物の類は赤葉に至るまで製して、是を食するを以て陰徳といふ。また萬物の徳を知り、日々にこの徳を積む者は、終に徳者となるなり。また愚者この徳を積む事を知らず。日々己が徳を損じ、我に徳薄きといふて天を恨み、身を恨む者多し。故に益々徳薄く成って、終に先祖の徳を失ふ。世に多く大徳の人有りといへども、生まれながら徳者にあらず。皆己より積みたる處の徳なり。是自然の徳にあらず。』(小西喜兵衛『*安心辦疑論要决(文政八年)』より引用)
*薬種商であった小西喜兵衛が、師と仰いでいた水野南北の教えをまとめた書。小西家にて代々施本として呈上されていたため、原本の残存数は極めて少ない。
『善道に敵する者は自然と神佛是をおさへ給ふ。故に他より嘲弄すと雖も、其の人の爲す様を見て、猶々愼み給ふべし。』(水野南北『南北相法修身録』より引用)
『そもそも私は大体において遺伝子決定論者で、人間の能力というものはほとんど遺伝的に決定されちまってるのじゃないかと思っているのである。頭のよしあし、筋肉の強弱、芸術的センス……、教育のなしうるところは、ただその遺伝子の力をよろしく引き出してやるに過ぎないので、しょせん鶏に水泳は教え難いのである…』(林望『イギリスはおいしい(平凡社、1991年)』より引用)
『そこはああせよとか、ここはこうやるんだとかいう知識でやっている。ここにある色が、直接こう入ってこないんですね。…やり方を教えない、憶えられないようにやる。あとは当人が勘でそれを会得する。教えたら最後、上手にならない。だから示して言わない。…講習に出たり、道場に出たりして勉強しているうちは、まだ、本当のことはなんにも教えられない。外へ出て三年たって帰ってくると、一言いうと、もうわかるんです。』(中川一政『對談(株式会社求龍堂、昭和52年、野口晴哉との対談)』より引用)
『〝言葉は、本来それだけでは、何のリアリティも持たない〟…。言葉がリアリティを持つのは、それが使用されるコンテクストや、それを使用する者の意図や性格などをふまえたときだけである。一次元的に、その深みをくみ取ろうとせずに読んでしまえば、言葉は、観念を伝達するというよりは、むしろ観念を隠蔽するほうに働いてしまうのである。』(Erich Fromm『The Art of Being-よりよく生きるということ-(第三文明社、堀江宗正訳、2000年)』より引用)
『社会的に見てもっと危険なのは、実行者が正直に信じているような詐欺である。そこで目指されているのが戦争計画であろうと、幸福に至る道の提示であろうと、その危険性は変わらない。…おそらくもっとも大きなまやかしとは、明示的であれ暗黙のうちであれ、パーソナリティ内で深い変化が生じるだろうと請け負っておきながら、与えられるのは、一時的な症状改善、あるいはせいぜいエネルギーの鼓舞や多少のリラクセーションでしかない、というような場合である。…そこには、性格内での基本的変化など見られない。』(Erich Fromm『The Art of Being-よりよく生きるということ-(第三文明社、堀江宗正訳、2000年)』より引用)
『伝統は常に正しく人を欺(あざむ)かないが、それに淫(いん)する人は欺かれる。現在の僕がむっとする感じは、そういう伝統に淫する人たちの製造品ばかりを見さされるせいかも知れない。』(大岡昇平『大岡昇平全集 第十五巻-祖国観光-(中央公論社、1975年)』より引用)
『素人が千人集まっても一人の人に敵(かな)わない。まぁ、その一人の人がプロだと、僕は思ってるんですけどね。圧倒的に力の差があること。その技量、ノウハウを持った人がプロフェッショナルですね。』(横井昭裕『プロフェッショナル-仕事の流儀-DVD(2006年10月26日放送分、日本放送出版協会)』より引用)
『頭からその意識にむかって叱言をいうのは親としての不安と焦りの為であろうが、冷静な処置ではない。…一度心に湧いた観念や感情はそれが何らかの形で放散されるまでは心の中で絶えずそのことを実現しようとして働いているものだ。それ故に悲しさをこらえている人は花を見ても涙が出、不平を抑えている人は雨の降ることにも苦情が出る。この心理的エネルギーは意識的方法ではどうにもならない。…意志で抑えれば反って活潑になるだけのことだ。こういう生理的、心理的エネルギーの動向を観察して之をリードしてゆくところに、大人の子供に対する態度があるのではないか。』(野口晴哉『叱言以前(昭和37年、株式会社 全生)』より引用)
『古い美の原理によればギリシャの哲学者プラトンが「美は韻律の釣合から生じる」と言ったのをはじめ、古代ギリシャ人の見解としては「美は変化の中に統一を表現することにある」とされていた。…ドイツの心理学者フェヒネルは「美は複雑さの中の秩序である」と説き、また現代のイギリスの美術評論家リードは「美とは五官が知覚する形式上の諸関係の統一である」と述べている。…色と形による造形が一定の形式をもって配列されているとき、私たちは快感を覚えるし、反対にそのような配列に欠けるところがあると、それに対し関心をはらわぬか、あるいは不快な感情が生じることになる。』(塚田敢『色彩の美学(1978年、紀伊國屋書店)』より引用)
『音楽家とか音楽教育家とかいう人たちは、人間理解ということが非常に希薄なわけですよ、人間を相手にしていながらね。…人間理解というものが浸透してくれば、必ず音楽するということが音楽療法的なものになってくるわけですよね。』(櫻林仁『音楽療法入門(昭和53年、芸術現代社)』より引用)
『〝幸福になりたい〟と思っている間は、幸福になれないんじゃないか、というのが、すごくあって……。〝幸福になりたい〟っていうのは要するに、自分の中に満ち足りないもの、外へ外へ欲しがって、目の前にあるものに気づかないことじゃないか。てことは、謙虚になったり、諦めたりすることで手に入ったりする幸せもある。いや、諦めるというのは、悪い意味じゃなく、明らかに見極めるでアキラ・メル、みたいな。』(桜井和寿『別冊 カドカワ Special Issue of Mr.children 〝すぐそこにあるかけがえのないもの〟(2004年、角川書店)』より引用)
『〝いけません、だめです〟っていうとき大人は、子どもが何を考え、何をしているのかをよく見きわめてから、いわなくてはいけない、たいせつなたいせつなことがある。そう改めて思いました。…私ね。思うの。いくら想像しても、想像しても、たりないのね。私たち、ずいぶん子どもの心を忘れてるみたい。』(宮城まり子『続 ねむの木の子どもたち(昭和56年、講談社文庫)』より引用)
『例えば、子供に勉強しろって言うだろ。勉強しろって。あれ、してる奴は言わねぇんだ。してねぇ奴に言うんだから。してる奴は言わないですよ。あんたがた、今まで息を吸えって教わってこなかっただろ?また、教えたかよ、ガキに。息を吸わなきゃ駄目だぞお前、なんて言ってる?寝てる間もちゃんと吸ってんだよ、なんてこう教えないでしょ。ちゃんと知ってるから、吸ってるから。息を吸え、って時はもうダメなのよ。…だから、勉強したくねぇ奴に勉強しろ、ってのは所詮無理だってことがわからないんだよね。しないと困る、なんてのはあとの問題。当人がしたくねぇ、つってんだもの。それをさせるっつうのは無理だ、っていうのがどうしてわからねぇんだ。』(立川談志『鮫講釈(落語のピン、1993年4月7日放送)』より引用)
『人間は本質的には犬、猫、シラミ、毛ジラミのたぐいとたいして変わらないものだから、あまりくよくよしたって始まらないのだ。…人間サマだからって別にシンコクがることはない。失格したって落第したってどうっていうことない。すべては大地に帰るのだ。いちいち些細な人間関係を顕微鏡的神経で、眺め廻してみたところで、そこにはなにもない。』(水木しげる『妖怪になりたい(河出書房新社、2003年)』より引用)
『戦後、日本の教育は、子供たちを「バカにする教育」をやってきたとしか思えないんだよ。「考えるな」「皆と同じことをやりなさい」という教育だね。だから僕は、制服や給食も反対。全部同じで横並びでは、何とか工夫しようという発想が起きないでしょ。』(未来工業創業者・山田昭男『「いいモノを安く」はダメ』より引用、産経新聞iZaβ版、2012/6/14、記事リンク先)
『釣りをする人はきっと海底の形状や魚の泳ぐ姿が頭の中に絵で出てくると思うんですが、溶接も鉄の溶け込み方や熱の伝わり方が頭ん中に絵が浮かびます。手を動かす技術というより感覚で体が勝手に動いとるような感じです。』(野村宗弘著『とろける鉄工所③(イブニングKC 講談社、2009年)』より引用)
『政治家の年齢をもっと若くしたほうがいいね。ジジィの政治家のほとんどは、自分のことしか考えてないんだから。国のためにどうこう言ってるけど、自分が金持ちになればみんな死んでもいいと思ってるんだよ。ノアの箱舟が来たら真っ先に乗り込むヤツばっかりで、君が行きたまえなんてヤツはひとりもいないね。』(高田純次著『適当教典(河出文庫、2007年)』より引用)
『待合は診療所の中でも重要なところで、待っていても気持ちの好い空間づくりが必要になる。…待合にいるだけで病気が治ったような気がする空間でありたい。…ただ、安全で安心できる診療所は形だけの処理でできるのではなく、心細やかな配慮が必要である。落ち着く空間、居心地の好さはエレベーターやバリアフリーにしたから感じるのではなく、それに加えて、開口の取り方、照明、色使い、騒音に対する処理、空気の動き、風景の取り入れ方など、人の五感に訴えるものの全てが一体となって初めて可能になる。私どもは常に住宅(づくり)のスケールでものを考え、さまざまな性格の個人の動きや性質を把握し、落ち着きと安らぎを求めることを目的としている。』(建築思潮研究所編/木原千利・多田雅著『建築設計資料90 診療所-木原千利設計工房の作品と方法-(建築資料研究社/日建学院、2003年)』より引用)
『中学生の頭を坊主刈りにさせようとする学校があります。暴力で強迫して生徒をしつけようとする先生がおります。こういう考え方は軍国主義に連なる考え方で、そこには押しつけがあっても教育はありません。…人間をつくる教育に押しつけはいけません。…女の生徒の洋服の寸法や何やらを喧(やかま)しく規制する学校があります。規制を厳にすることによって関心をそそっているといえましょう。その学校の生徒がお洒落になったり、男の子の眼をひくことに興味をもったりするのはその規制の反動です。逆効果のあることをなぜ押しつけるのかといいますと、教育ということを知らないからであります。潜在意識教育を考えないところでは、いつも恰好(かっこう)と体裁(ていさい)が大事にされております。』(野口晴哉『寸語(「月刊全生」、昭和三十九年)』より引用)
『人間相互の関係には次の幾種類かが区別される。即ち共生的関係(symbiotic)、退行的破壊、愛の三つである。…彼は他人に「のみこまれる」か、他人を「のみこむ」かのどちらかによって、その人の一部となり、それによって孤独という危険を避ける。前者は臨床的にマゾヒズムといわれるものの源泉である。マゾヒズムとは自分の個的自我を追い出し、自由から逃走し、自己自身を他人に付属させることによって安定感を得ようとすることである。…しかし、「愛」という仮面をかぶった好意的支配もまた、しばしばサディズムのあらわれである。…退行は、ある程度までは人間と世界とのあらゆるかかわり合いにみられる正常なリズムであって、静かに考え、研究し、物質や思想や態度について考え直してみるために必要なことである。…破壊性は退行の積極的な形である。即ち、他人を破壊しようとする衝動は、他人から破壊されることに対する恐怖から出てくるのである。退行と破壊性とは、同じ種類の関係の消極的な形と積極的な形であるから、両者は色々な割合でしばしばまざりあっている。…愛とは他人と自己との関係の生産的な形である。それは責任と注意と尊厳と知識とを含意し、他の人間を成長させ発展させたいという希望を含意する。』(Erich Fromm(谷口隆之助・早坂泰次郎訳)『MAN FOR HIMSELF(Holt,Rinehart&Winston Inc.)』より引用)
『カウンセラー自身が精神的に健康であること、じゅうぶんに成熟していること、じゅうぶんな自己統制を達成していることが望まれるのである。…ただし、共感的理解と同情的理解と混同すると困るのである。クライエントの動揺に巻きこまれ、同調して、カウンセラー自身が同時に動揺するのは共感的理解と呼ばない。カウンセラーは、クライエントとは別個の、分離した、独立したひとりの人間であることが要求される。』(古屋健治『カウンセリング(文教書院、昭和46年)』より引用)
『面白いのはそういう場合、カウンセラーが何を言ったかよりも、どういう態度でそれを言ったかの方が、クライエントがさらに面接を続けるかどうかの決め手になることが多い、ということです。…ノンバーバルコミュニケーション、つまり言葉によらないやりとりの重要性が…カウンセラー側の一種の気迫のようなものが、クライエントに伝わるからだと思います。…クライエントは、そうしたカウンセラーの態度によって、信頼感をかき立てられたり、不信感を抱いたりするのだと思います。』(氏原寛『カウンセリングの実際(創元社、昭和50年)』より引用)
『子どもの問題行動は、現象面にあらわされている事実にのみ目を向けても解決は望み薄い。表面的なものより、子どもとそれをとりまく人、とくに親との複雑にからみあった人間関係に原因を見出すことが多い。』(金城朋子・福光和子・水島恵一『児童臨床心理学(垣内出版、昭和44年)』より引用)
『したがって、神経症患者においては、大部分こどもの時代にとどまったままで阻止されている彼の人間構造が、常に、たとえば彼に出会う成人(分析医をふくめて)の父性的な面の知覚のみをゆるすことになるのであるとされるのである。そして現存在分析的な心理療法は、…患者のうちに自然的な人間的成熟を、…静かに暖かく見つめてやることを重視するのであり、それを治療的功名によって、こちらの恣意によって左右しようと思うことを固くいましめるのであり、ひとつのゆるやかな経過をとりつつ、人間は出会いによってはじめて人間になることを教えているのである。』(霜山徳爾『カウンセリングの展望(誠信書房、昭和40年)』より引用)
『技術はそう無闇に振り回すものではないのです。人は急処を覚えると、何でもかんでも急処ばかりを押さえて治そうとする。急処を押さえなくては治せない人は、薬を使わなくては治せない人と同じです。何もしないで治せなくてはいけない。』(野口晴哉『潜在意識教育法講座(昭和33年1月)、「心理指導ということ 4」』より引用)
『…その神棚や仏壇が消えるか家の隅に追いやられるかして、家の中心に白黒テレビジョンが置かれ始めた六〇年代の初頭、そのテレビの画面から突然、「働いて、儲けて、物を買え!」と一方的に欲望をそそる御神託が、日々見知らぬ虚像によって大衆を駆り立てた。「ファイトを飲もう!リポビタンD!」というコマーシャルが馬鹿でかい声を立ててブラウン管から飛び出したのも、ちょうどこの時期(昭和三七年)である。…かつてその家の中心には、「死」のイメージすら匂う「沈黙」が支配していた。それが突然、ひたすら「生」のイメージを拡大謳歌する「喧騒」へと逆転したのである。またかつての家庭の価値観の一つの核となっていた神や仏は、人間のとりとめもない煩悩を諌める精神的エーテルとでもいうべきものを、家の中に漂わせていた。しかし、それがテレビに成り替ってから、それは欲望や煩悩を刺激するエーテルへと逆転したのである。…「家」はこのように、世間や自然に向かって、より没交渉的となり、自閉し、非合理や無駄を排した無機物へと変化していった。あの「マイホーム」「マイタウン」「マイカー」という名の自己中心的で冷酷な、ワシさえよけりゃ、アンタはどうでもええ式、七〇年代処世術文法は、すでにこの「家」の変容の内に秘められていた。』(藤原新也『東京漂流(情報センター出版局、昭和58年)』より引用)
『己れ上手と思はば、はや下手になるの兆しと志るべし。』(杉田玄白『形影夜話』より引用)
*早稲田大学蔵書目録にて原書を閲覧出来ます。引用した言葉は下巻の14頁にあります。→こちら
『一年半、諸君は短促なりと曰はん。余は極めて悠久なりと曰ふ。若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。夫れ生時限り有りて、死後限り無し。限り有るを以て、限り無きに比す。短には非ざる也。始より無き也。』(中江篤介[兆民]『一年有半』より引用)
*近代デジタルライブラリーにて原書を閲覧出来ます。引用した言葉は四~五頁にあります。→こちら
『画論に気韻生動(きいんせいどう)といふことがあります。気韻は人品の高い人でなければ発揮できません。人品とは高い天分と教養を身につけた人のことで、日本画の究極は、この気韻生動に帰着するといつても過言ではないと信じてゐます。今の世にいかに職人の絵が、またはその美術が横行しているかを考えた時、膚(はだ)の寒きを覚えるのは、ただに私だけではありますまい。…筆をもつて絵を習うことはさう大騒ぎしなくてもよいのです。それよりも人物をつくることが大事で、それを土台にしないことにはいくらやつても駄目なことなのです。人間が出来てはじめて絵が出来る。』(横山大観『大観画談(講談社、1968年)』より引用)
『比叡山のご開山伝教大師は、〝一隅(いちぐう)を照らすものは国の宝なり〟と示しておられる。われわれの理想は、人類であり世界であるけれども、社会の片隅で、そのささやかな身辺を明るく照らす人があるならば、そして〝あなたがいてくださるから〟とだれかからいわれるような人になるならば、それが人生の生甲斐というものであり、そういう人を国の宝というのである。われわれみんなが掲(かか)げなければならない理想は、人類の幸福と、世界の平和ということであるが、ひとりひとりは社会の片隅で、わずかに周囲を照らして行く、実践的な人間にならなければならんと思う。』(山田無文『むもん法話集(春秋出版、1963年)』より引用)